ヘビーフライト 昭和47年本八幡 ぼくらはたしかにそこにいた

「ヘビーフライト
  〜昭和47年 本八幡 ぼくらはたしかにそこにいた〜」

地域サイト「本八幡で行こう!」で知り合ったもいりいりさんが市川市で過ごした日々を懐かしく思い出しながら書いてくれたエッセイです。
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以下からは本編を読んでからお読み下さい
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父が亡くなったのは5歳の時だった。

弟は2歳だったから、父の思い出があまりなく可哀想、

ぼくが中学生になる頃まで母は時折そう話していた。

 

中学生になると学習塾に通うようになった。

庭続きの祖父母の家に目黒から越してきたおない年の従兄弟と、

菅野にある塾まで自転車を走らせた。

 

その日の夕食はあわただしく

「きょうは塾の日だから、ふたりとも早く食べて行きなさいよ」

と、いつも母も叔母もぼくたちをせかしたが、たまに母と叔母が塾の日だということを忘れようものなら、

夕食後は示し合わせてすぐにお風呂に入った。

そのまま忘れてくれ、もし思い出したとしても風呂に入ってしまったのだからもう、

いまさら塾に行けとは言うまい、という作戦。

しかし、われながら姑息なアイデアはいつも湯船に漬かっているときに崩れるのだった。

電話が鳴り、母や叔母が先生に詫びる声がし、そのあと罵声が飛んでくる。

急いで湯から上がり、自転車で塾に向かう。ま、「想定内」の出来事ではある。

だが、そんな姑息な作戦をほとぼりが冷めた頃にまた繰り返し、

たまに成功をおさめることもあったのだった。

 

ぼくたちの住む「三角公園の近所」には中山から通る道があって、

この頃に新しい大きな道があの「北京通り」をこえて菅野へと続くようになった。

こんなところに道が出来るの?なんて思っていたら、

想像をはるかに越える巨大な道の工事が始まり、泥道、ジャリ道、舗装の道、

そこをぼくたちは自転車を漕いで塾へと向かったのだった。

あの頃の自転車は「チャリ」などという薄っぺらな呼び名もなく、

ブレーキもまだワイヤーじゃなく鉄の棒「ロッド」で作動してたっけ。

ぼくたちは、ブレーキをキーキーと鳴らし、

ザリガニ釣りにでも行くように塾へと向かった。

 

画期的なカップヌードルの自販機が会った場所

帰り道、いまはアーデルスポーツクラブになったあたりのカーブのところに

カップヌードルの自販機があり、画期的な新製品だったし、むかしのインスタントラーメンの美味しさ。

機械についている赤いボタンを押すとカップの上ブタに金属棒が穴を開け、

お湯まで出てくる仕掛けにも感心して小遣いを貯めては食べたっけ。

たしか自販機にはフォークじゃなく割り箸が置いてあったような記憶があるんですが。

→覚えていらっしゃる方は(こちら)まで情報をお願いします。

 

学校ではクラスの違う奴と友だちになるのも塾だ。

市内の他の中学からも生徒がやってくるんで「連帯」するのだ。

何中生は田舎ッぺだのと、自分の通う三中閥をつくるためには連帯が必要だ。

そしてこの年頃には、国府台や昭和など、

私立中の女の子に連帯仲間が同時に憧れたりもする。

そんなこんなで、しだいに連帯関係が仲間関係になり、

一緒に隠れてたばこを吸ってみたりと、新たな体験を共有しだす。

 

やがて仲間関係から愛校心もうまれ、ほかの中学にも友達ができた。

小中学校でも別のクラスにいたヒーコ。

あだ名なので、コでも男子。もちろん有名なピーコさんでもない。

そのヒーコとある日「ロック喫茶って知ってる?」という話になった。

「知らない」「じゃ行こう」ということになり、2つとなりのちいさな私鉄駅、

市川真間駅前にあった店に塾の帰りに繰り出すことになる。

 

ぼくらが中坊だった昭和47年から50年当時は、英国のロックミュージックを聞く友人は兄貴か姉貴の影響。

長男の自分は八幡小の前にあった昭和堂というレコード屋さんで、吉田拓郎やかぐや姫などのフォーク、

そしてせいぜいビートルズの赤いシングル盤のレコードを買って聞いていた程度だった。

もちろん買う前に、店で何度も試聴させてもらってからだ。

そしてそこのお店でヤマハのフォ−クギターも買い、

浅田美代子の「赤い風船」という曲を弾いたのが始めてのギター体験だった。

そんなぼくらが、「ダバコはチェリーでしょ」などと半人前の準備をし、地下の店に入る。

チューブアンプにアルニコのJBLランシングスピーカーから沼地のような音が轟いている。

 

当時は高価な輸入レコードを買うことなんて出来ないから、

輸入オーディオ機器とで音楽を聴かす「〜喫茶」が市川にもいくつかあった。

ギターを修理してくれるパンダさんによると、日本最古のロック喫茶だか、

もしくは現存する最古だったかのお店は稲毛にあるという話しで、

その店のノートには松任谷と荒井の名前が続けて書かれていたりする。

当時はみんなそんな場所で音楽にハマったのだった。

 

そして本八幡をはじめ総武線沿線は音楽に恵まれて、吉祥寺や阿佐ヶ谷などからの客もいた。

そんな客たちは夜もふけるだけ更けた頃、充血した目をしながら枯らしたのどを潤す「市川の梨」を

いつも絶賛した。この季節は特に多くの客たちが川を渡ってやってきた

・・・か、どうかは定かではない。

 

稲毛の日本最古のロック喫茶だか、もしくは現存する最古だったかのお店

http://homepage3.nifty.com/inagefullhouse/

 

 

「2.サイケ」に続く…次へ 



 

 

・サイケ=サイケデリックの略:広辞苑より

・サイケデリック=幻覚的。幻覚剤によって生ずる 幻覚状態に似たさま。

 この状態を連想させる彩色の絵・デザイン・音楽についてもいう:広辞苑より

 

さて、その「お店」はというと、壁にはサンフランシスコで開催されたジェファーソン・エアプレーンの

飛行機がやっとのおもいで飛んでいるイラストが描かれたコンサートポスターが貼られ、

天井には大きな太陽神のペイントが描かれている。

 

中坊たちはド肝を抜かれた。

トイレの裸電球はむき出しに壁から露出し、目玉が描かれている。

以来、便所がクールなお店は大好きになった。

 

「何か聞きたいレコードある?」 さすがに神田川はない雰囲気、と、すかさずヒーコが

「えっと・・・レ、レッド・ヅェッペリンお願いします」

「ご注文は?」

「コーヒー2つ」などと、なんとかナメられないようにと背伸びしてこなした初体験は

「タバコは吸ってもイイけど、吹かすだけだと煙いんだ。次は頼むね、またおいで」

とのご指導いただいたのみで、無事に終わったのだった。

 

その「地下の店」では見るもの聞くものがめずらしい。

そして、自信のついたぼくたちふたりは、もう中学がどこだとか、

あいつツッパッている(もはや都市部では死語です)など、そんなことはもうドーでもよくなり

足繁く「地下の店」へと通うようになった。

 

そこで学んだのは「タバコは吹かすモノではない」ということだけではなかった。

当時、過激派女性擁護団体は無条件に、つまり双方に非があったとしても、

離婚した女性のみを救うため、もと夫の前にピンクのヘルメットを被っては現れて、

過激な行動に出たものだった。団体は、自宅はもとより会社や仕事先まで「もと夫」を追いかけまわす。

追われたもと夫たちはもう、本物の過激派たちが潜伏している山村のコミューンに行くか、

海外に出る以外に行き場を失うくらい追われるのだ。

 

さすがに潜伏するのはイヤでしょ、と「もと夫」は借金をして海の向こうに渡ったのだった。

親というものは、いつもありがたい存在であり、またいつも厳しい。

最初の借金まではよくても、追加資金注入はまま成らない。

そこが日本国政府と違うところだ。

 

アメリカ合衆国、カリフォルニア州はサンフランシスコに渡った「もと夫」の金はすぐ尽き、

まあ、仕方なくコミューンと呼ばれるヒッピーたちの共同生活の場へと転がり込むことになる。

たしかハーバード大学の心理学者たちに端を発した平和主義・博愛主義的な思想が、

大統領になるまえのJ.F.ケネディーや美術家、音楽家など革新的なアーティストたちを巻き込みながら、

やがて多くの若い世代の人たちの間に広がるラヴ&ピースを旗印にベトナム反戦運動へも発展する。

かれらは、コミューンと呼ばれる自治的な共同社会をつくりあげ、

みんなで自給自足の共同生活を始める。

 

そこで共同生活してラブ&ピースを崇拝する人をヒッピーと呼んだ。

サイケデリックなムーブメントもコミューンから始まったのもらしい。

コミューンの語源はヨーロッパの共同自治村の意。

ベトナム戦争や1960年代という時代がもたらしたものは、それぞれの国々のそれぞれの社会背景で

大きく違う。 質まで違うのだ。

 

日本では過激派が潜伏していた場所も、コミューンと呼んでいた。

「もと夫」は日本のコミューンを嫌い、サンフランスシコのコミューンに行きついたということになるのだ。

そしてサンフランシスコの山にあった彼の住むコミューンの頂上には

歴史的なローカルバンドが共同生活をしていたのだった。

サンフランシスコの街を代表する企業であるリーバイスジーンズの会社は、

全米で最初に同性愛者を積極的に雇用し、またHIV陽性者も最初に雇用している。

この街はおそらく全米でもっとも博愛的かもしれない。

ゲイ&プラウドの頭文字がブランド名の「GAP」も現在この街の代表的な企業らしい。

さて、地下にあるその店にはレコードはもちろん、精神にいたるまでそのコミューンから送られてきた。

 

だから英国ロック全盛ともいえる頃なのに、その地下の店だけはレコード棚の並びが、

ニューヨークのバンドから並べられてサンフランシスコのバンドで終えている。

ほんの少しだけ、お客が持ってきた英国ロックが置いてあった程度で、はじめてリクエストした

「・・・・えっと、レ、レッド ヅェッペリンお願いします」は幸運にも

その店では数少ない英国バンドだったのだった。

 

やがてぼくらは高校生となり、チェリーよりは少しましな名前のタバコを吸うようにもなる。

近所では手に入らないアメリカ製のリーバイスをアメ横で買うようにも教わった。

高校は電車で1時間ほどかかる場所に通ったが、奇遇にもふたりの学校は1駅違い。

ただ、高校は別なのだから「学閥」も変わり、通学も別々。

毎日帰宅し着替えて、地元の地下の店で集合するようになった。

頼まれもしないのに、お店を手伝い、その当時の彼女とも地下の店で出合ったりした。

しんしんとした季節、しずかな音楽が染み渡るたるように流れ、曲の間に流れる

レコードのノイズに癒されることも知った。

 

ベビーブーマー世代のお客さんたちも、お店の仲間のひとたちも、

見慣れない小僧たちを仲間として扱ってくれた。

市川真間のバス通りの踏み切りのとこにある

「当店はスープが熱く、カウンターも高いのでお子様には不向きでございます」

という注意書きのラーメン屋さんでよくご馳走してもらったものだ。

 

そのひとたちの生き方すべてが自分たちの教科書となった。

 

 

「3.坊や」に続く…次へ 




 

 

この時代、大手流通グループのテナントビル建設が始まり、

テナント入居の促進や生活者からの好意度向上を目的に、たくさんプロモーション費用が投下された。

企業の繁栄というものはお客様からお金を落として頂くだけではダメで、憧れられ、愛されながら、

お金を落としてもらう必要がある。ブランド・エクイティーの向上と維持だ。

そんな理由から津田沼と千葉への進出を期に、いくつかの音楽イベントが行われるようになる。

 

「地下」のみんなはプロダクションスタッフとして現場制作をすることに。

そのための会議は当然「地下の店」で行われ「君たちも来れる?」と誘ってもらい加わることになった。

千葉文化会館大ホールでの日本初のレゲーバンド来日コンサートなどに借り出され、

ほかの高校生に比べると随分とませた小僧に成長させてもらったのだった。

丁度そのころに京成千葉駅前にライブハウスを造ることにもなり、

内装工事見習いなどの生きる術も学ぶこととなる。そして、目まぐるしく毎日を過ごす日々だった。

 

千葉中央公園ではジョン山崎&スクールバンドの野外ライブ。

ベースは後の高中正義バンド、オルケスタ・デル・ソルのゲタおさんだった。

ジョン山崎はティンパンアレーを中心としたミュージシャン集団のひとりで、

このティンパンアレーという名前も、ニューヨーク郊外ウッドストックだかの音楽集団と同じ名前だったとおもう。

何か知っていらっしゃる方は(こちら)まで情報をお願いします。

 

千葉大学医学部の文化祭コンサートではステージハンドに付き、

大阪から来たと言うバンドの全員にイスを用意した。

「イスか?タイコのセットも小粒でどんなバンドなんだろう?」とヒーコが疑問に思ったのは優歌団だ。

ふりかえってみるとこの時代、フォ−クミュージック一辺倒からいろいろな音楽が始まったのではないか?

優歌団だっていまや日本を代表するバンドになったのは確かだ。

 

日比谷野音での井上孝之バンドとのジュリーは完璧にロックスターだ。

その日は、ステージから客席に大きなバルーンを転がし、ファンがステージに戻すという演出だった。

本番前に「音響スピーカーのタワーにバルーンがあたると崩れる可能性がある。

絶対にタワーを守れ。ただし、もし倒れ始めたら逃げろ、スタッフには保険を掛けてないから。」

という注意が出たりと、まるでお祭りを守る街火消しのようでワクワクしながら仕事をした。

 

そんなことばかりしていて勉強はクラス最下位の息子を母親が怒らないわけがなく、

ある夜ついに、大切にしていたフェルナンデスのベースと、

ガールフレンドがプレゼントしてくれた手編みのマフラーと一緒にぼく自身も、

家の外に放り出された。

仕方なく東菅野広小路の事務所に居候させてもらった。

 

丁度その頃、「地下の店」はプリズムというバンドを抱え、本格活動に備えて事務所を構えていた。

 

そこでライブやコンサートの現場でお手伝いする「ぼーや」となった。

ツインキーボードのプリズムは、フェンダーピアノやハモンドオルガンにレスリースピーカー、

それからベースアンプ・アンペグV4―Bという機材も重量級のバンド。

それらを時には手運びで屋根裏まで上げ、終わったらまた下ろす。

しかし、憧れの機材を前にするだけでも楽しかった、そんな日々であったのだ。

 

この頃、千葉商科大学の軽音楽サークルの部室を借りてよくリハーサルが行われた。

学校のキャンパスは豊かな四季が感じられる。

国府台は江戸川の土手もあり、樹木が多くてすばらしい場所だ。

プリズムのオルガニスト伊藤くんは千葉商大の学生だった。

しばらくプロでやっていたが、バンドが解散した後、大学に入学し、在学中にプリズムで弾くことになるのだ。

 

 

「4、ステンレスのステージ」に続く…次へ  



 

 

ある日、「地下の店」に行くと「24時間野外ライブを主催することになった」と聞かされる、

プロモータだ。君たちも頭数にはいってるヨロシクネ、との事だった。

この頃のぼくらにはもう別々の任務があり、この日、ヒーコはプリズムの現場で

ポリドールのスタジオに行っていた。

そこで、帰宅するころを見計らってヒーコの家に報告に行った。

まだ携帯電話はウルトラ警備隊くらいしか持てなかったのだ。

 

玄関でピンポンを鳴らすとお母さんが迎えてくれた。

ヒーコんちのお母さんはいつも朗らか、そして、いつお邪魔しても歓迎してくれる。

階段を駆け上がりヒーコの部屋にはいると

「いささか凄いよ、レコーディング! 

16トラックの幅広テープが、すごいスピードで廻ってる」と。

当時のヒーコは「いささか」を文頭に付けて話してた、たとえVery(すごい)な時でもだ。

「ヒーコ、こっちもイササカ凄いことになった、24時間の野外コンサート、しかも房総!!」

「いささか、ヤバイね(歓んでいる表現)、行くでしょ」

房総半島のフラミンゴが有名ところ。

そこには、軽合金会社がスポンサーの、ステージがステンレスで出来た野外音楽施設があった。

いまもあるのか?

 

この頃は、千葉県の条例で未成年者が参加しそうなイベントは

午後11時に終わらなければならない。しかし11時に終えても、もう電車が無い。

電車が無い所に放り出すより、会場にいたほうが安全なのにだ。

 

出発の朝は、早くから三軒茶屋経由で世田谷線にのり、マーシャルアンプの頭だけ取りに行った。

当初はバイクの後ろに乗り、ヘッドを抱えて帰る計画だったが、ドゥカティ−の450デスモとか言う

オレンジ色のバイクで、振動もすごく後ろに席なんてついていないのだ。

絶対に落ちる、だからイヤだと言い張り電車になった。

 

午後に戻り、出発準備を終えると今度は運転手が一人足りない。

「さっきはお前の話し聞いたから、今度はオレの言うこと聞け、

おまえが海神まで運転な、オレはドカで行くから」。

「・・・・・・。」

 

しかたなく緑のサニー1000を運転し、それから何人かを何ヵ所かで拾い、運転をかわってもらい

大原の家に向かった。だれかの波乗りのために造った家があったのだ。

そしておきまりのサイケなお姉さんたちもそこに居た。

天井や壁、床までが原色に塗り分けられたビーチハウスで落ちるように眠り、あっというまに朝を迎えた。

 

サイケな兄さんたちは元気だ。

すでに海から上がりシャワーを浴び、ジョーバンムスクをぬりたくり、オカッパ頭も整っている。

現場に着くや、早朝からサウンドシステムを組み上げ、サウンドチェツク。

 

しかしこの頃、真夏の房総半島の太陽は、容赦なくステンレスのステージの温度をあげ、

アンプの保護回路を作動させた。そう、オーバーヒートと間違えて電源ダウンしたのだ。

 

氷と扇風機で機材を冷却し、なんとか予定どうりの時刻に開場したい。

現場はてんやわんやの状況だった。

そこへ「責任者いる?」と、どうみても、怖いおじさんが、何人かの怖いお兄さんを連れてやってきた。

こりゃ、大変なことになった。

しかもここは房総半島だ、漁師町は気が荒い。昭和40年代最大のピンチ!

 

ふと見ると、いつも阿佐ヶ谷から地下の店にやって来くる「サザンソウルを聞かす飲み屋」のマスターが、

腰まである長髪を振り乱し、すでに「アゥ」などと奇声を上げながら踊り狂っているではないか。

すかさずぼくは「あの方が責任者です」と、怖いおじさんに伝えるとおじさんは彼と話し合いを試みた。

 

しかし、このサイケなお兄さんには「天国」しか見えていないようす。

張り倒されても、恍惚の表情を崩す事はなかった。

まるでウッドストックコンサートのフィルムを見ているよう。

その怖さには、さすがの怖いおじさんも諦め「後でまた来るから」と言い残して帰っていったが、

もう2度とおじさんたちは来なかったのだった。

 

アンプの温度もなんとか下がり、予定どうり開場、開演出来た。

いままで以上にバンドたちは大きく見え、そしていつものようにクールだった。

音はうねり、空間を歪ませた。

真っ赤な夕日がステンレスのステージに写りこみ、まるでサンバーストのようだった。

 

日が沈み、ステージを照明が彩る頃、打ち上げ花火があがり、観客のテンションは最高のまま、

あっという間に条例で定められた午後11時を迎えたのだった。

 

機材をバラし、銀バコのトラックに積み込むのは容易だった。

順調に撤去を終え、車両をすべて送り出し、心地よい疲れを噛み締めている時、

ぼくたちはある現実に気づく。

「オレたちは棄てられた」のだった。

よく考えるとサイケなお姉さんたちが乗り込むとなれば、ぼくたちの座る場所がないのはあたり前の事だ。

理屈では解っていたが、体中の力が抜けてしまいしばらく動けなかった。

 

「地元の女の子たちも、もうとっくに帰っちゃったよ。」

脱力感でつい地べたにヒーコとふたりで寝転がると、空には満点の星が輝いている。

こんなに綺麗な夜空は初めてだった。

これがぼくたちへのご褒美なんだ、そうに違いない。

 

「ヘヴィー・フライト」どんなに重苦しい時でも僕たちは飛び続けよう。

だからこそ、また楽しい街に降りられるのさ。

ゴロゴロころがる石のように、そしてもっと遠くに。

 

それからぼくらは、ゆっくりと駅を目指して歩き出した。

次の旅にむかって、もう、とっくに電車の終わってしまった駅へと。

 

 

「5 郷愁」に続く…次へ  



 

 

この物語はフィクションです。登場する多くは実在しますが、あくまでも物語です。

 

その後、ヒーコはサンフランスシコに渡り、

ぼくはといえば明治学院というミッション系の高校から大学に上がれない数パーセントの中に。

水道橋にあった予備校で浪人時代に多くの仲間に恵まれ、

その後、大学では海のスポーツに夢中になりました。

年間180日の合宿生活で、しばらく本八幡の街から離れます。

 

そして、音楽は16ビートの時代へ。

それでもまたしばらくすると、太い弦を張ったギターから奏でられる「沼地の音楽の匂いのする場所」を求めて

彷徨うようになりました。

 

あの夜「棄てられた」後、スタッフの和夫さんがぼくたちを拾ってくれました。

コロナマークUハードトップの後ろで寝かしてくれ、翌日は海水浴場に連れていってくれました。

そこでの朝ごはんの美味しさは忘れられません。

 

和夫さんはその後、津田沼の線路沿いに、めちゃクールでしかも解っているアメリカンミュージック

のお店を開きました。しかし、そこも今は開いていないかもしれません。

 

突然、昨年の夏、ヒーコが亡くなった、という知らせがぼくのもとに、友人からメールで届きました。

サンフランシスコでは苦労をし「お金が無くて救急車に乗れなかった」と笑顔で話していたことを

思い出します。

 

ぼくのいま住む街は、本八幡の街からあまりに遠く離れています。

 

みんなそれぞれの人生で「ヘヴィーな飛行」をしながら、いつか天に召したり仏になったりする。

そんなシンミリした気持ちは、ふるさとの街「本八幡」を思い出すときの

「キュン」とする郷愁の想いになぜか似ている。

いまはそう噛み締めています。

 

ぼくたちの街はこれからも変わり続けることでしょう。

そしてまだまだ、ひとりひとりの「ヘヴィー・フライト」は続く。

だからぼくは、ちょっぴり疲れたときには「本八幡で行こう!」に寄ってゆくことにしている。

あの伝説の「地下の店」のように。

 

01・16・06  Heavy Flight 完

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筆者紹介
もいりいりさん もいりいり (本名:小久保明哲) 
1959年(昭和34年)1月1日、本八幡生まれ。
5歳で東京都杉並区に引っ越す予定であったが、
父の急逝のため中止となる。

文化幼稚園・八幡小・市川3中卒。
2003年6月まで本八幡(菅野4丁目)で過ごす。
現在、米国ハワイ州ホノルル市在住。

ハワイから好評連載中の 「ウクレレホッとニュース」
http://www.kurosawagakki.com/sh_shibu/hotnews.html

 

「作品解説」を読む…次へ  

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作品解説

昭和47年、その前年だったかどうだか忘れたが、国鉄「本八幡駅」は高架になった。
高架になったおかげで、駅ビルショッピングプラザの「シャポー」もできた。

その頃の日本は、オイルショックのお陰で高度成長期が安定期に入り、のんびりのほほんとした空気に包まれていたと思う。 浅間山荘事件、札幌冬季五輪、山陽新幹線開通、沖縄返還、日中国交回復、パンダ来日…

音楽はビートルズのお祭騒ぎが終わって、アメリカンロックの時代に。 彼らは早熟にも中学生でその世界にはまっていったわけだが、 この時代、音楽と供に自堕落な(笑)青春を過ごした人は少なくないと思う。

例え「地下の店」のような場所で青春を過ごした人間でも、大抵、普通に社会人になっていく。 もいりいりさんも例にもれず、毎朝、本八幡から満員の黄色い電車に揺られ、、 マナーの悪い若者相手に説教をする中年になっていた。 が、そんな毎日も数年前に終わりを告げた。

外側はなんの変哲も無いサラリーマンでも、彼の心の中では「ロックな魂」が長髪を振り乱し、 人知れず燃え続けていたのだ。 彼は奥様の留学をきっかけに勤めていた会社を辞め、ハワイ、オアフ島についていくことになる。 まるで旅行にでも行くようにギター1本だけもって。

彼の様に行動に起こすことはかなり勇気がいるが、私は誰の心の中にもそんな「ロックな魂」が存在するものだと思っている。 これを公表するにあたって、読んだ方の「ロックな魂」を少し揺らすことができれば幸いです。
ヒーコさんのご冥福をお祈りすると供に。

ヘビーフライト企画、発案 リカ


画期的なカップヌードルの自販機が会った場所
「地下のお店」のあった京成市川真間の線路沿い。

追加情報
カップヌードルの自販機について 2006/02/15(Wed) 10:16 satoshisさんThanks!!
カップヌードルの自販機に備え付けられていたのは、最初フォークでしたが、その後専用の短い割り箸になったと記憶しています。 カップヌードルはラーメンではなく新しい食べ物なのでフォーク推奨でしたが日本国内では受け入れられず、仕方なく割り箸に移行したものと思われます。

エッセイに登場した「ヒーコさん」は市川市出身の某有名アーチストさんとお友達!?
なんとあのヒーコさん&もいりいりさんは以前、本八幡で行こう!の掲示板でも話題になった あの市川出身の超有名アーチストと大親友だった!? 現在、メールでお問い合わせ中です。あぁ、ドキドキします! しばしお待ちを♪